2005/03/21 Mon

富士山を撮る

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 土・日の2日間、東京方面に出張してきました。向こうでの仕事の内容は研究会に参加することで、大変真面目な仕事をしてきました。研究発表も興味深く、有意義な2日間でした。往復は、もちろん大好きな新幹線。新幹線に乗るというだけで、それだけでもう十分に楽しいのですが、今回は、もう一つの目的がありました。

 富士山を撮ることです。最初に0系にのってから、他の寝台での回数も加えると優に百回は超える東京往復。車両は、100系・300系を経て、500系・700系の時代です。デジカメを購入してからも、7年の月日がたつのですが、富士山を写真に撮ったことがなかったのです。

 高校の古文で習った「東下り」を生まれて初めて経験したのは、じつは大学を卒業した年でした。母が豊中生まれ、父が京都好きという家庭に育ったので、都会といえば大阪でした。親戚もあったし、小・中・高の長期休みとかも大阪には行くけれど、その向こうには行く用事もなかったし、必要も感じてませんでした。だから、東京に初めて行った時は、大人になった24才の時でした。

 新幹線で生まれて初めて富士山を見たときに、なぜか浮かんできたのは、高校の時の『伊勢物語』「東下り」でした。授業中に、自らの初「東下り」の経験を話してくれた先生のことを思い出したのです。その授業を受けてから、10年近くたっていて、その間、一度も思い出したこともなかったのですが、その授業中の場面が、ふっと浮かんできたわけです。

 その時、いろいろ考えました。何年もたってから理解する事柄があるのだと。いや、何年かの時を経ないと理解できないことが、たぶん世の中にはたくさんあるんだろう、ということを。その時にわかった気になっていたことが、全く違う理解にもなるんだ、ということも。いろいろと実感させられた「東下り」だったのです。


 往き(最初の写真)は晴れていて、きれいだったのですが、帰りは曇っていました。写っている鉄橋は、富士川の鉄橋です。

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2005/03/19 Sat

卒業式あとの妙な気分

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 すでに、他のブロガーが書いておられるように、昨日は梅花女子大学の卒業式だった。毎年、卒業式のあとは、妙な気分になる。胴上げの途中で、ストンと落とされるような気分と言えばいいだろうか。もちろん、本当に胴上げの途中で落とされたことはないのだが……。

 我が大学の卒業式は、大きく分けて3つのイベントによって成り立っている。まず第一は、全学の卒業生を講堂に集めて行われる、儀式としての「卒業式」。それが終わると写真のように、各学科ごとに集まって、そこでそれぞれの学科長が学長の代理として、1人1人の卒業生に卒業証書(学位記)を手渡しする。保護者の方もその部屋に入室される。それが終わると、学生会館というところで立食形式の簡易卒業パーティーが開かれる。

 儀式のメインは卒業式本体だが、実際に教員として卒業生を送り出すという気分になるのは、学科ごとの集まりである。1人1人の卒業生の顔を見ながら、あんなこと、こんなこと、色々なことを思い出す。今年の卒業生たちは、オープンキャンパスなどのために、彼女たちがまだ高3生だったころから知っている子たちが多くいて、感慨深かった。

 胴上げから落とされるのは、その学科ごとの集まりが終わってからである。振り袖や袴などのきれいに着飾った彼女たちと短時間の間に何枚もの記念写真を撮る。というより撮られる。それは、卒業パーティーでも繰り返される。こちらとしては、1人1人の卒業生たちと短いなりに思い出談義をしたいのだが、写真を撮り終えると、だいたいが「お世話になりました」と立ち去ってしまう。そして、そのままお別れである。これまでの卒業生たちとの別れ方は、概ねそうだった。その後、連絡を取り合っている教え子はごく少数である。

 今年の場合は、ちょっとだけだが卒論指導をしたゼミ生たちとお茶を飲みながら、思い出談義ができた。ただ、そこには1人の学生の彼氏も同席していて、それはそれで、妙な緊張感があって、気を遣ってしまった。

 毎年、みんな、フッといなくなってしまう。こんなもんなんだろうし、僕が学生の時だってそうだったのかもしれない。古詩に「悲しみは相別離するより悲しきはなく、楽しみは相新たに知るより楽しきはなし」とある。もうすぐ新入生がやって来る。
 

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2005/03/18 Fri

「卒園式」の意外な反響

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 2日前に「卒園式」という題でブログを書いた。どうもこのブログが、ある特定の人たちによって猛烈な勢いで読まれているみたいなのである。書いたときには想像もしなかった反響を呼んでいるようなのだ。梅花ブログは、世間一般にあるブログとは違って、知名度が高くない。ドリコムブログを大家にさせてもらってはいるが、ドリコムブログのブロガーとの交流もそれほどなく、いわば孤島化している。だからこのブログの読者は、当初の目的である受験生ではなく、梅花の関係者である。それが悲しくもあり、気楽でもあるのだが、今日、これまでとは違った知名度アップ展開の仕方も可能かなと気付いた。

 以前に、その日のアクセス数を知ることが出来ることを書いたが、それに加えて、読者がどういうURL経路でやって来たのかがわかるようになっている。何を検索した結果、ここにたどり着いたかがわかるのである。たとえばgoogleで「共通一次」と検索すれば、高い順位で「共通一次の思い出」がヒットする。そこからやって来た場合、googleで「共通一次」を検索して来訪、ということが「リンク元URL」に記録されるのである。

 さて、ここまでが今日書こうとしている「意外な反響」の前フリである。冒頭に書いたように「卒園式」がびっくりするほど読まれている。その証拠に、いつもなら数日たたないとランキング(このランキングの出し方も今ひとつよくわからない)に反映されないのに、「卒園式」は早くも1位にランクされている。これも、全国各地の特定読者のお陰である。どのような読者かといえば、全国各地の幼稚園や保育園で、保護者代表の「謝辞」を任された人たちである。その人たちが訪れているようなのである。

 保護者代表の「謝辞」をやりなれている人など、そうはいないだろう。スラスラと謝辞の文章が思い浮かぶなんてことは、まずあり得ない。だから、全国各地の保護者代表さんたちは、自宅のパソコン画面に向かい、「卒園式 謝辞」とか「保護者代表 謝辞」というキーワードを検索エンジンに入力し、エンターキーをたたく。そこで高順位にヒットするのが、梅花ブログ「卒園式」なわけである。昨日だけで30人ぐらいの人たちが訪れたのではないだろうか。あいにく、僕の書いた内容はその人たちを満足させることは出来なかったはずだ。

 そこで、もう一度今回の題名に釣られてこのブログを訪ねてくださった保護者代表の人たちのために、要領を書いておきます。

 幼稚園や保育園のイベントというのは学年によって異なりませんから、「年少→年中→年長」を時間軸にして園生活を思い返すのは、繰り返しが増えて冗長になってダメです。だから、四季の移り変わりを時間軸にしてたどると簡潔でまとめやすくなります。春の入園・進級や遠足、夏のプール遊びや花火大会、秋の運動会や祖父母参観、冬のクリスマスや豆まきなどなど、それぞれのイベントの3年分の思い出をごちゃ混ぜにしてしまうと、文章が盛り上がります。聞いている人たちはそれぞれに思い出の持ち方が違いますので、ごちゃ混ぜにしてあれば、そうそうそんなこともあったよね、という感じになります。あと、祖父母参観の思い出は必ず入れること。やっぱり、祖父母の助けがなければ育児は困難ですから、そこで感謝の意を表しましょう。それと、どのイベントでもかまわないので「親子共々学ばせていただきました」という謙虚なコメントを入れると、教えた側の人たちは喜びます。

 というわけで、今回、全国の「卒園式 謝辞」関係者には、梅花ブログなるものがあることを知ってもらえたはず。これはこのブログの広告活動としては王道だと思う。
 

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2005/03/17 Thu

無事修了

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 写真のとおり、長男が幼稚園を無事に修了した。人生初の「修了証書」を大事そうに持ち帰ってきた。お昼ご飯を食べ終わったあと、ふと気づいたらしく、母親に言われるわけではなく、風邪で寝込んでいた父親のところに見せに来た。その行動に、今のところ育て方は間違っていないだろうことが確認できた。biographyに書いたように、僕は人生最初に修了するはずだった保育園を自主退園し、幼稚園でも、小学校でも問題児だった(もちろん、中学校も、高等学校も、そして大学でも問題学生だった)。その経験から、僕のような子どもにならないように育てている。ただし、笑いの感性だけは似てほしいので、生活の場面場面で、かなり厳しく指導している。

 続いて長男は、担任の先生が長男だけに宛てたメッセージカードを見せてくれた。これには、参った。担任の先生の苦労というか、頑張りというか、クラスの子どもたちを愛する気持ちが手に取るようにわかるからだ。カードは全文手書きでうちの長男と先生のツーショットの写真が可愛らしく貼り付けてある。長男のクラスは31人の園児がいる。この手間を31人分、想像しただけでぞっとする。だから、それだけ有り難く思った。しかもメッセージは、判で押したようなものではなく、個別のエピソードが書かれている。「手作り」の極致のようなカードには、うーん、大学教員も見習わなくては、と思った。僕に置き換えれば、卒論指導や演習指導ということになるだろうか。今でもできるだけ丁寧にやっているつもりだが、よいお手本を見せてもらえた。

 さて、そのメッセージの中身だが、これを書くと親バカもいい加減にしろと言われそうなのでやめておく。でもこのカードは大切に取っておこうと思う。もしかして、うちの長男がぐれたり、道を踏み外しそうになったら見せてやるのだ。おそらく一発で改心するに違いない。そのぐらい「いいこと」が書いてあった。

 ちなみに、妻の「謝辞」は大変好評で、たくさんの方からお褒めの言葉をいただいたようである。ゴーストライター冥利に尽きる。しかし、風邪を治さなくては18日に大学に行けなかったらシャレにならない。
 

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2005/03/16 Wed

卒園式

 3月16日は、我が家の長男の卒園式である。彼の人生にとってこれから何度か訪れる「卒業」の最初のものとなる。とはいっても、本人はそれほど自覚もなく、だから、これといった感懐も抱かず(抱いていたら、少々気色悪い)、緊張もしていないようである。

 だが、我が家に、明日の卒園式を前に少々緊張気味な家族が1人。妻である。長男からすれば母親である(当たり前か)。昨日は文房具屋に行き、今日はデパートにスーツを買いに出かけていた。僕はといえば、風邪を引いてダウンしている。

 なぜ、文房具屋なのか。ちなみにそこで購入したのは「折りたたみ式 罫入り 御式辞用紙」。そう、妻は卒園式で保護者を代表して「謝辞」を述べるという大役を仰せつかっているのである。これにはいろいろと経緯があり、彼女は言ってみれば代役である。もともと代表として謝辞を述べる予定だった人が出産直後のために代役が必要となり、妻に廻ってきたのである。

 うちの嫁さんは、僕とは違っていわゆる「優等生」としての人生を送ってきた人である。答辞とか送辞とかの経験もあるが、作文というか言語表現が大の苦手の人だ。昔なら先生が草案を作ってくれたのだろう。したがって、結果的には、僕が今回の謝辞の内容を考えた。構成は何年か前の謝辞を参考にさせてもらい、細かい文章は我が家の長男のこの3年間を思い出すことによって自然と生まれてきた。

 ふだん、教えている側の人間なので、こんなことを保護者の方に言ってもらえたら、教員はうれしいだろうな、という言葉をそれとなくちりばめておいた。妻は慎重派なので幼稚園のほうにこの内容で述べますという形で検閲を願い出たようだった。予想どおり、添削はされなかったようだった。練習にも付き合った。かけた言葉は「ゆっくり読めば大丈夫、もともと内容がしっかりしているから」。これは励ましにはならなかったようだった。

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 ちなみに、わが梅花女子大学の卒業式は、3月18日にある。

 

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2005/03/15 Tue

拾う神?

 今日、この3月に卒業する教え子からメールが入った。「先生ー!連絡下さい!」とある。こういう時は悪い知らせのことが多い。すぐに連絡を入れた。「どーした?なんかあったんか?」「先生ー、就職決まりました」おいおい、良い知らせじゃないか。そしたら、メールの文面も書きようがあるだろう。とりあえず、お祝いの言葉しか言えないから、「おめでとう、よかったなー」。要件がそれだけなら、もうちょっと違うメールの書き方をするだろうと思って「メールの内容から悪い知らせかと思ったやないか」というと、「連絡が取りたかったのは、もちろん就職が決まったことを報告したかったからだけど、先生に教えてもらいたいこともある」という。

 その子は、3月に入っても一生懸命に就職活動を続けていた。今日、採用決定の連絡があったのは、京都に本社がある、聞けば誰でも知っている大手の会社で、だからこそ当然落ちると思っていたらしく、それと並行して数社に面談に行っていたらしい。そして、明日、もう一つの会社の最終面接があるらしい。本人としては、今日決まった方に就職がしたいらしく、明日の面接先へどう連絡すればよいのか、その断り方を僕に教えてほしかったらしい。

 そんなことを他人に聞かないと出来ないようでは、就職してから先が思いやられるなどと、まるで1人で大人になったような偉そうなことは絶対に言わない。むしろ、こういうことを自分勝手に判断せずに、先達にアドバイスを求めようとする姿勢は大正解だと思う。僕もそうして社会の仕組みを覚えてきた。だから、すぐにセリフを噛み含めるように教えてやろうとしたが、我慢した。そして、この3月の土壇場まで、彼女を見捨てずに面倒を見てくださったキャリア支援部(昔ながらの言い方だと就職部)の方々に教えてもらうように伝えた。

 ある意味で、キャリア支援部の方々からすれば、このネタは最もうれしい悩み相談であるはずだ。一番おいしいところを僕がいただくわけにはいかない。教員としては、ピンチになったときに真っ先に僕と連絡が取りたい思ってくれただけで、4年間面倒見続けた報酬としておつりが来る。夜にメールで確認したら、キャリア支援部の方に報告・相談して、明日の面接先にもきちんと断りを入れたらしい。

 「捨てる神あれば拾う神あり」という。月並みな言葉かもしれないが、それだけ普遍性があるとも言える。本当に「拾う神」はいる。僕も就職には苦労した。最終面接まで行くのだが、面接相手を説教したり、まんまと乗せられて感情的になってケンカしたりと、なかなかうまくいかなかった。そんな時、いつもある先輩に「どこかに必ず菅本くんの努力を正当に評価してくれる人がいる」と慰められた。慰められている時には、そんなの励ましのための美辞麗句じゃないかと内心で反発もした。でも、その後に僕の努力を評価してくれていた人に、何人も出会った。あの先輩の言うとおりだった。その先輩も苦労人で、いつもそのまた先輩にそう言われていたらしい。だから僕も、僕より若い人にはそう言うことにしている。

 「拾う神」は突然やって来る。いつ来ても良いように努力していないと、せっかく来てくれても逃げてしまう。結局、努力が一番なんだと思う。努力しているのに、と思うかもしれない。そう、たぶん努力はしているんだろうけど、もうちょっとなんだと思う。そこであきらめて投げ出しそうになったら、すこし休めばいい。大きく息を吸って、周りを見渡そう。次の努力の方向が見えてくるはずである。
 

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2005/03/13 Sun

ある騎手の引退

 日本中央競馬会、最近はテレビCMのおかげで「JRA」という方が通りが良いかもしれない。その最多勝記録を持つ騎手が引退した。梅花にはなんにも関係ない話だし、このブログに書くべきことではないかもしれない。でも自分勝手ながら、その騎手への送別の言葉というか感謝の言葉を書かせてほしい。

 騎手の名は「岡部幸雄」。今年で56歳だから、警察や自衛隊ならば、すでに定年を超えた年齢である。現役生活は38年。45歳を超えて騎乗し続けることが希少な中で、さらに10年余りターフに登場し続けた。築き上げた勝利の数は、2943。レース数が増えた現在でも、年間100勝は立派なトップレベルの騎手である。それを30年続けてやっとで到達できる数字を岡部騎手は残した。この通算勝利数以外の記録のほとんどは、ご存じ武豊騎手が次々と記録を塗りかえており、通算勝利数もあと400勝で岡部騎手の記録を追い抜く。彼の年間勝ち数からすると2年ちょっとで現実となるに違いない。でも、たとえ武豊に記録を破られても、岡部幸雄という騎手が築き上げた栄光はなんら色あせることはない。

 岡部騎手が日本競馬界に果たした役割は、特定の厩舎に属さないフリー騎手の先駆者だったことや、海外でのレースに積極的に参加したこと、そして名馬シンボリルドルフとの無敵の活躍などが挙げられるのだろうが、僕の興味はそこにはない。むしろ競馬界の発展など、じつはどうでもいい。不幸にも絶頂期に騎手生命を絶たれたある騎手の分まで騎乗し続けてくれたこと、また共にそうすることを願って一緒に頑張っていたもう1人の騎手が不本意ながら引退しても、なお10年あまり頑張り続けてくれたことに、自分勝手ながら感謝したいのである。

 不幸にも騎手生命を絶たれたのは福永洋一、もう少し騎乗し続けたかったのは柴田政人、そして岡部幸雄。馬事公苑騎手養成所の15期生という固い絆で結ばれた3人である。昭和54(1979)年3月4日、福永洋一は落馬事故により騎手人生を閉じた。一命はとりとめたが、その日を最後にターフに戻ってくることはなかった。「もし」福永洋一が落馬していなければ、武豊が色々な記録を塗り替えるにはあと10年が必要になっただろう。また、岡部が56歳まで騎乗し続けることもなかったかもしれない。

 柴田政人と岡部幸雄は、福永洋一の事故に際して、おそらく共に心に誓ったはずである。「洋一の分も自分が騎乗する」と。柴田政人が引退したのが1994年のこと。柴田政人という人は、頑固な義理人情の固まりのような人で、クールで合理的な岡部騎手とは正反対の性格の騎手だった。おじさんファンが圧倒的に多く、騎手人生の晩年、念願の日本ダービーをウイニングチケットで制覇した時、府中競馬場に来ていた初老に近いおじさんたちが泣きながら抱き合っていたのが印象的だった。本人はもっと騎乗したかったかもしれないが、やはり落馬による後遺症で引退した。柴田引退の感想を聞かれた岡部幸雄は「体の続く限り、自分は騎乗し続ける」とコメントしていた。

 岡部はそれから10年以上も騎乗し続けた。彼の騎手としての全盛は柴田が引退した頃までだった。だからこの10年は、いつも思っていた。どうして岡部は引退しないのだろう?引き際が悪いのは彼らしくない。これが柴田政人なら納得できる、引き際の悪いところが浪花節の似合う柴田らしいと思えるからだ。しかも、岡部は2年前に膝の手術で1年以上休業した。その期間に引退することもあり得たはずである。しかし、岡部は54歳で復活し、昨年度60勝した。それで充分じゃないか、これで引退の花道は出来た。誰もがそう思ったが、本人の口から出たのは現役続行宣言だった。それまで、騎乗することに意義がある、というタイプの生き方をしてきた人ではないのに、なぜ?

 たぶん、福永洋一の分まで頑張ってくれたんだと思う。柴田が不本意でやめてしまった分も頑張ってくれたんだと思う。口では決してそんなこと言わない分、馬に乗ることで示してくれたんだと思う。不言実行型の人で、つねに結果でものを言う人だった。だから、もしあの二人が元気であれば、自分と同じように乗れたはずだと言うことを、身を以て示してくれたに違いない。これは、本当に自分勝手な意見である。岡部騎手が聞いたら誤解も甚だしいと怒られるかもしれない。でも、福永洋一がターフからいなくなった3月4日に近い3月10日に引退発表したのは偶然とは思えない。自由に自分の意志を言葉に出来ない福永洋一に、きっと岡部幸雄は「洋一、もういいよな」と心の中で話しかけたに違いない。

 10年以上前、ちょうど柴田政人騎手が引退した直後、つくば市にあるデパートで、オフの岡部幸雄騎手を見かけた。マジックと色紙を買ってサインをお願いしたが断られた。そのとき、福永さんの分も、柴田さんの分も頑張ってください、とお願いした。お疲れさまでした。そして、ありがとうございました。
 

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2005/03/12 Sat

松下村塾のはなし

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 「ブータンの小学校」にからめて「学校」の話からの展開。こんな学校だったら、教える側も学ぶ側も楽しいだろうなーという学校が、では歴史上に存在したのかということを考えてみた。「教えたい度」と「学びたい度」を数値にして、その平均値を出してみる。最も高い数値をたたき出すのは?僕の浅薄な知識からいえば、しかも日本に限定したならば、松下村塾ぐらいしか思い浮かばない。吉田松陰という人が住む家に、彼に学びたいと考えた若者たちが集まってきた。藩校そっちのけで、とにかく松陰先生に教わりたい、というわけである。吉田松陰という人は「生まれついての教師」という感じの人だったらしく、11歳で長州藩主を相手に講義をしたとある。その卓越した教授力は素質プラス経験によって磨かれたのだろう。30歳という若さで亡くなったのだが、教師歴はなんと20年に及んでいた。

 よく知られているように、松陰は兵学の師として藩校で教え、次に罪人として投獄されていた野山獄で教え、釈放されたあと、江戸に呼び出されて処刑されるまでの余生に松下村塾で教えた。彼の人生の真骨頂は、安政の大獄に抵触した所行ではなく、野山獄と松下村塾での教師活動にある。野山獄での様子は、そこに居合わせたある女性との淡い恋心の交流を軸に『吉田松陰の恋』(古川薫、文春文庫)がある。松下村塾での様子はいろいろと書かれたものがある。ただ、松陰の伝記をとなると、個人的なお勧めは司馬遼太郎『世に棲む日々』である。高杉晋作という人が日本史に登場するのは、彼が松下村塾で吉田松陰に学んだからだった。この二人の生涯を、時間の経過にあわせて、主人公を松陰から高杉にスライドさせて描いたのが『世に棲む日々』である。

 司馬遼太郎の小説の中で、一番好きなのは?という質問に、真性の司馬さんファンならば「うーん?」とうなるだろうが、僕は即座に『世に棲む日々』と答えられる。迷いはない。この小説のラストのあたり、高杉晋作の最期の部分はわずか20ページ分ぐらいの分量だが、それを読むのに、本当に何日もかかった。高杉が死んでしまうのがイヤだったから、まずは小説を手にできなかったのが2〜3日。それでも読もうと思って、ページをめくるのだけれど、大げさではなく1ページも読み進まないうちに涙で先に進めなくなる。今思い出しても、目が潤む。これが高校生の頃の話なら、なかなか多感な青春時代だったと感慨にふけることもできるが、20代後半の大学院生時代の話だから、相当にお恥ずかしい。

 あまりにこの小説に思い入れをしてしまう自分が不思議で、30歳を過ぎた頃だっただろうか、非常勤とはいえ大学の教壇に立ち始めた頃だった。実家に帰ったとき、母に、なんだかんだ言って教師の理想の1人として吉田松陰がいること、司馬遼太郎の『世に棲む日々』を号泣しながら読んだことを話した。母はにこやかに「当たり前だわね、わざわざ萩(山口県萩市)の松陰神社に連れて行って、そういう人になりますようにとお祈りしたんだから」と平然と答えた。まるで、いつかこの日が来ることを知っていて、答えを用意していたかのように。

 写真は1969年5月3日、小学校1年生の筆者と兄(小5)。二人で、今も松陰神社の敷地に保存されている松下村塾の看板前での記念撮影。「お兄ちゃん、まぶしいからって目つぶりすぎ」の図。3年前、父の遺品から発見したネガを現像。
 

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2005/03/11 Fri

丹波自然運動公園

 昨日の夜にアップしようと思ったけど、ドリコムブログ(梅花ブログの大家さんです)のサーバーの調子が悪かったらしく、更新できなかった。「3月の目標」なんて書くからこんなことになるのだと反省した。

 昨日は、梅花女子大学硬式テニス部の合宿先を尋ねて、丹波自然運動公園に行って来た。久しぶりに、学内を走り回ること以外で汗をかいた。

img20050311.jpg 大学にもいろいろなクラブがある。いわゆるサークル活動なのだが、高校までの語彙で言えば「部活」である。部があれば、当然ながら顧問がいる。というより、梅花女子大学では、たとえ名義上だけでも顧問がいなければクラブは存続できない。いつだったか、教授会の時に回ってきたアンケートに、高校時代に硬式テニスの経験があることを書いたら、その次の年だったか、2年後だったか、硬式テニス部の顧問を依頼された。顧問がいなければ部が存続不能となることを聞かされて断るほど意志が強い人間ではないので、あっさり引き受けた。というわけで、僕の梅花女子大学での肩書きの1つに「硬式テニス部顧問」がある。

 何年間も幽霊顧問だった。幽霊部員という言葉はよく聞くが、僕は幽霊顧問そのものだった。何度かコートに顔を出そうとしたが、幽霊の方がかえって学生さんたちも気が楽に違いないと、自分の忙しさにかまけて幽霊であることに甘んじていた。ハンコだけ、つまり活動のための書類作成の時だけ、僕の存在が必要となる。だから去年まであった日本文学科の事務室にハンコを置いておき、それを使ってもらっていた。たぶん、去年までに卒業した部員たちのほとんどは僕の顔も知らなかったに違いない。

 それが、今年になって事態が変化し始めた。きっかけは情報メディア学科の1年生が4人も入部したことだった。しかも、顧問としては大変恥ずかしい限りなのだが、今年の春の時点で、硬式テニス部には4年生4人しか在籍していないという状況だったそうなのである。つまり今年の1年生が入部しなければ、部は自然消滅する寸前だったのだ。そんな状況に1年生が6人入部した。そして、入ったはいいがどこで活動していて誰が部長なのかもよくわからない、なぜなら4年生たちはみんな就職活動に大忙しだから、ということで僕の所に1年生がやって来た。僕はこれまで本当に何もしていなかったので、情けないことに何もしてあげられなかった。そうこうするうちに4年の部長さんが現れ、この人がとても良い人で、1年たちを優しく導いてくれて、手探りながら1年だけでの活動が開始された。たぶん、それが5月の中頃か終わり頃だったと思う。初めての教務委員としての多忙な毎日、申し訳なく思いながらも顧問としての自分は片隅に追いやっていた。

img20050311_1.jpg 夏休み、何度か部活をやっている所へ顔を出すチャンスはあった。スケジュール表ももらっていたのだが、毎週土曜日のオープンキャンパスや自分の研究活動のために、それがなかなか実現できなかった。そして後期が始まると、また忙しい毎日。情報メディア学科の部員たちも、練習に顔を出してほしいという声はかけてくれなくなっていた。学生たちは、きっとあきらめていたのだろう。でも、後期試験が終わった頃、合宿をやることを教えてくれた。これが最後のチャンスだと思った。幸い、期間中の1日は何も予定が入っていない。それが、昨日3月10日だったのである。「あれっきり」と言われないようにしよう(うわー、書いてもうた)。
 

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2005/03/09 Wed

FOMAアンテナ、その後

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写真1

 かなり前に、梅花女子大学にFOMA専用のアンテナが設置されることは書いた。前回のブログで触れたように、そのコンクリートの土台をしっかり固めるために、工事はゆっくりと進んでいた。というより、乾くまでは全く工事現場に人影がないほどだった。それが3月に入ってから、徐々に人が現れ始めた。今朝、大学に来てみたら、ついに重機が登場した。写真を撮ろうとデジカメを探すが、なんと今日は忘れてしまった。手元にあるカメラは、FOMA-P2102V装着のカメラしかない。少々画質は落ちるが、撮影対象がFOMAのアンテナ工事だから、こちらの方が相性が良いだろうと勝手に理屈を付けて、まずは1枚。写真1のように、クレーンで鉄骨などをB棟の屋上に運び上げていた。

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写真2

 朝の会議を終えると、すぐにB棟屋上と平行位置にあるC棟4階に移動。写真2。おい、おい、もうなんか建物ができているではないか。角度を変えて、もう一枚(写真3)先週の金曜日にはたしかここまでは進んでいなかったから、僕が休んでいた月・火のうちにここまで工事が進んでいたのだ。せっかく、「FOMAのアンテナができるまで」という写真による報告をしようと思っていたのに、やられたー、という感じ。しかも今日撮影した写真では、全体像が説明できない。やはり向かいのF棟からズームで寄らなくては、これは後日の宿題。

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写真3

 B棟屋上では、5〜6人の作業の人たちが働いていて、そして地上にも重機を操る人、その周囲で作業する人、通行人の整理をするガードマンさん、これは大工事だ。うーん、インタビューしてみたいけど、忙しそうだし、第一、何をしているのですか?と尋ねても、FOMAのアンテナ工事です、と答えられるのがオチである。いつ出来るんですか?というのも4月半ばであることを、すでに僕は知っている。でも何か工事をしている人たちとコミュニケーションが取りたい。なんか聞いてみたい。だが、とうとうきっかけがつかめず、すごすごとA棟のコミュニケーションルームに帰った。ふとベランダ方向を見ると、おー?

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写真4

 なんと、B棟と対面にある緑風館(学生食堂棟)の屋上にも、おじさんたちが町でよく見かける携帯電話用の小アンテナを設置している(写真4はその設置後。写りが悪いのでまた紹介する)。そうか、B棟屋上のアンテナというのは、ここら辺りを仕切る親分アンテナなんだ。これは、インタビューの質問として通用する。質問のための質問では、ない。よし、これを工事している人に聞こう、あの大きいアンテナが親分アンテナで、町の電信柱の先にあるのが子分アンテナなんですね?質問としては、これで充分に問答が成り立つはずだ。

 そう思ったら、次の会議の時間が来ていた。この謎解きは、F棟からの写真と一緒に、次回のレポートに。

 

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